石塚隆則 | 高木真希人: 彫刻 | 絵画 - portrait of an invisible man -

石塚隆則 | 高木真希人: 彫刻 | 絵画 - portrait of an invisible man -

2018 9.21 - 10.27

レセプション:9月21日(金)18:00 – 20:00
オープニングに合わせ、作家も在廊いたします。
協力:Art and Reason Ltd.
*同時開催 石塚隆則個展「飛天」9/28(金)~10/22(月)
ROPPONGI HILLS A/D GALLERY - 12:00-20:00

Press Release

会場:nca | nichido contemporary art
会期:2018年9月21日(金)-10月27日(土)
営業時間:火 – 土 11:00 – 19:00 (日・月・祝 休廊)
レセプション:9月21日(金)18:00 – 20:00
オープニングに合わせ、作家も在廊いたします。
*同時開催 石塚隆則個展「飛天」9/28(金)~10/22(月)
ROPPONGI HILLS A/D GALLERY – 12:00 – 20:00

この度、nca | nichido contemporary artは、石塚隆則と高木真希人による二人展「彫刻 | 絵画 – Portrait of an Invisible man (見えない人間の肖像)-」を開催いたします。
人物の姿(外観)を表現する肖像は長い歴史を持つ芸術形態であり、現在でも多くのアーティストが肖像画や肖像彫刻を手掛けています。その表現方法は時代とともに多様化し、各々アーティストが独自の視点で作品に表しています。
石塚隆則、高木真希人の作品には表現手段やテーマは異なるものの、擬人化された小動物やケモノ、怪獣のような実在しないものが登場します。強烈なインパクトをもつその肖像はまるでマスクを被っているようで表情は見えません。しかし描かれる背景や対象の立ち振る舞いに私達の視点と意識が次第に誘導され、対象を通して作家各々の関心や共感、様々な思いといった目には見えない内面の感情が表れます。スマートフォンにある高性能カメラやSNSの普及によって多くの人が日ごろから写真に囲まれて生活をしている今、目の前に写る対象(表面)が現実そのものだと思い込んでしまいがちです。改めて自身や他者と向き合い、その関係、背景を見つめなおすという思いがこの企画の軸となっています。本展では石塚隆則の彫刻作品、高木真希人の絵画、それぞれ新作、および未発表を発表いたします。


石塚 隆則
1970年 神奈川県生まれ 在住
近年の主な展覧会:「飛天」A/D Gallery Roppongi、東京(2018 upcoming)、掛川茶エンナーレ、静岡(2017)、「ねむりと死」un petit GARAGE、東京(2017)、「けものアパートメント」ヨコハマアパートメント、横浜 (2016)、大舘・北秋田芸術祭、秋田(2014)、「Totem」nca | nichido contemporary art, 東京 (2014), TAT(トランスアーツトーキョー)、東京(2013/2012)、TRAUMARIS、東京(2011)、「夫婦岩」hpgrp window gallery、東京(2010)、「霊獣」nca | nichido contemporary art、東京(2009)、「毳モノ~ケモノ」DISCO、横浜(2006)、「タベルちゃん」リトルモア・ギャラリー、東京(2005)、「Wa☆ショイ!」マキイマサル・ファインアーツ、東京(2005)、「magical art life –あるコレクターの世界」トーキョーワンダーサイト渋谷、東京(2006)、「カフェ・イン・水戸2004」水戸芸術館及び水戸市立博物館など コレクション:MOT 東京都現代美術館 | 他パブリックコレクション、プライベートコレクション

高木 真希人
1986年 静岡県出身 現在東京在住
2010 多摩美術大学絵画学科油画専攻 卒業
~2011 表現集団「オル太」在籍
主な展覧会:「Moonshot」FARO-Kagurazaka, 東京 (2018) /「Nice Corm !!」ANAGURA, 東京(2017) /「アウターサイド2」Calm&Punk gallery, 東京(2016) / 「損保ジャパン選抜奨励展FINAL」損保ジャパン東郷青児美術館, 東京(2012) / 「Emerging Japanese Artists」iPRECIATION, 香港 (2011) / 「ASCENTION PLEASE!! 」ギャルリー東京ユマニテlab (2010)

協力:Art and Reason Ltd.

コンテンポラリー・ポップ ――「彫刻|絵画 -Portrait of an Invisible man-」展

現代アートへのポップの影響は、あまりに常識になっているので、人々の視界にも思考にも入ってこない。このようなときこそ、ポップを視界に収め思考の対象にしなければならないだろう。何であれ無意識に使用している道具が不可視の前提になっているとき、そのあるものが絶大なる力を周囲に及ぼしているからだ。
 現代アートにとって、ポップがそのような基盤になっていることは間違いない。世界の現代アートを見渡せばたちどころに判明するが、今やポップはポップと呼ばれないまでに浸透し氾濫している。その理由は、文化(アートを含む)が社会のなかで果たしている役割を考えれば、自ずと明らかになる。その役割とは娯楽である。
 アートの役割に娯楽が忍び込んだのは、1900年前後のことだった。最初は、娯楽のシーンを描く作品(印象派)だったが、娯楽を主題ではなく動機とするアートが登場してきた。その先鞭をつけたのは、キュビズムのコラージュである。20世紀初頭の社会を表象する様々なイメージを断片化し、それらを組み合わせる。しかも絵画(漫画やアニメも同様)の場合、三次元の世界から二次元の表現に置き換わる。この断片の組み合わせのゲームが、ポップの原点である。それだけではない。現実を材料として現実とは異次元の世界に転換される世界は、とはいえ超越的な次元に飛躍することはない。
 次に、ポップがアートの表舞台に躍り出たのは、言うまでもなくウォーホルに代表されるポップアートである。それは、前述のポップが全面開花したものだった。1960年代の大量消費社会を無尽蔵な源泉として、ポップアートは現実を変形し異次元の世界へと移行させる手段として、陰に陽にコラージュを適用した。それらの表現はカラフルで陽気なアンチ・ファインアートだったが、現実から乖離した幻想の世界へと逃げ込むことはない。だからといって、ポップは現実を肯定することもない。現実を肯定も否定もしない明るく派手で薄っぺらな世界、ポップアート。現実を母胎とするこの私生児的な表現は、現実を変形してその本質(欲望、享楽)を無邪気に照らし出してみせたのだ。しかし、ポップアートと同時代のコンセプチュアルアートが現実を知的に批判し、モダニストアートが現実とは無関係の自律性を主張するのとは違って、現実について判断を下すことはなかった。
 ポップアートの現実に対するアンビギャスな姿勢は、今日どのように継承されているのだろうか? あまりに常識であるがゆえに誰にも気づかれないポップを、人々の意識に上らせることで、ポップが密かに主題にする現実という〈謎〉に対面させる。そしてポップを、無意識のさらなる深みへと後退させて眠り込ませるポストモダンのスペクタクルではなく、断片化された現実を組み合わせるポップの戦略を改めて取り上げて、別世界へと移し替えられた現実の鏡を問いの俎上に載せるのだ。
 ncaの二人展「彫刻|絵画-Portrait of an Invisible man-」に出展するアーティストの場合はどうだろうか?
高木真希人の絵画は、ポップの手法を用いて異次元の世界を露出させる。だが、その手続き自体(たとえばストロボを発光させる)が、ポップのゲームの暗喩になっていて、その戦略を、「Moonshot」シリーズでは月光の下に鮮やかに浮き立たせる。その陽気で明るいキメラ的形象は、人々が生きる現実を肯定も否定もしない。その中間に浮遊しているのだ。このようにポップの戦略を暴くことで、ポップで中和された高木の世界は、ポップの終末を縁取る無残な虚無を見事に回避しているのである。
他方、石塚隆則は、彫刻作品で高木とは異なるポップのステップを踏んでいる。彼は、床面や壁面に施されたインスタレーションを通じて、三次元のポップの空間に現実世界を巻き込む。つまり、ポップアートの出自である現実をポップな形象(コラージュされた身体)と混ぜ合わせて、素顔と仮面の二重のブロックをめぐらした上で、現実を肯定も否定もしない表現の時限爆弾を仕掛けるのである。それが爆発するとき、現実はついに「善悪の彼岸」の哄笑に包まれるのではないだろうか。
以上の点から、二人の作品は60年代ポップアートの正統的な後継者と言えるだろう。

市原 研太郎 (美術評論家)

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